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情報を囲い込むことにメリットはあるか
2005年09月29日(木)


情報を提供したことによって,自分を含めた誰かが明らかな損害を被る場合以外は,情報を提供することには義務がない場合でも,情報を提供してあげればよいと思う。世の中が敵ばかりであれば,そうも言ってられないが,同じ会社の同僚や何らかの縁で知人になった人であれば,敵と呼ぶにはあまりにも不適切だろう。

つまり情報化社会と言われてから久しい今日にあって,情報を囲い込むことによるメリットは,もはやなくなってしまったと言えるのではないか,と言いたいのである。

もちろん,情報を旧来通りの情報ソースからのみに頼り,ネット等をソースにしないという選択肢も全く問題なく存在すると思うが,この変革に関して理解できないと,新しい価値観・在り方に基づいた人々の行動の意味を理解できずに非常識な行動と認識してしまい,それ以降まともに会話が出来ず,困ることになるだろう。また,単に知識・経験を得るチャンスも自ら閉ざす結果となり,不幸な結果となるかもしれない。


・情報を取り巻く環境を再確認しよう

自身にとって情報が持つ価値や信憑性を見極め取捨選択していくという,情報化社会という環境での基本的なあり方としては,現在も変わっていないと思う。情報化社会と言われ始めた20年前当時は,受け手の態度として"いかにして無価値な情報を選別し捨てられるか"が主なテーマであったように思うが,しかし当時と比べると現在はネットの普及によって,さらに指数関数的な情報量の増加が起こっている。取捨選択をするためには従来の方法では対応できない程であり,情報に接する方法そのものの変革を余儀なくされている。"変更"ではなく"変革"だと思う。程度の問題という意味ではない。理由は後述するが,情報に接する方法にとどまらず,人の在り方も変更する事を意味するからである。

さて,そもそも情報とは何だという,極めて基本的なことだが,ここで簡単に触れておくことにしよう。

基本的に,ある価値観に基づいた意識によって情報は処理されるからそれが持つ価値を判断出来るわけであり,またそれは,それによって次の思考・行動・感覚に影響(フィードバック)し,新たな情報を処理する準備が整う。

この作業を繰り返すことを通じて,我々は人格を形成していく。この作業は生きていれば否応なしに行うことになり,この作業を前向きに捉えるなら,この作業を通じて成長・発展していくことになる。要するに"体験"を通じて情報は得られるものであり,極端に言えば,情報が人を発展させるという概念だ。

またそのプロセスには経験や感情が伴うため,厳密に言えば,全ての情報は2つと同じものは無い。つまり,"情報ソース"と,そこからある人によって取り出され抽出された結果である"情報"を区別して考えると,同一の"情報ソース"を異なる人が処理した場合,結果として同一の"情報"ということにならない。受け手によって,情報ソースから抽出するポイントや質が異なるから,そこから得られるものも当然異なる,と言う意味だ。

例えば上手いコミュニケーションというものは,ある情報ソースを効率的に伝えあうことのみならず,やり取りする間に生じてしまった情報の質的変化などの誤差を出来るだけ縮められた,ということだ。


・旧来通りの在り方とは。その具体例

情報を伝達する手段は,もちろんコミュニケーションだけでは全く無い。しかし,情報の価値を誤認識することによって困るのは,往々にして人と人の会話という場面が多いことは容易に想像出来る。会話は論理的思考だけでなく,直感的な判断に占める割合が多いこともあるし,常に感情や情緒が付いて周り,しかもリアルタイムにフィードバックして次の場面に反映するため,情報の質的変化/劣化が起こりやすく,すぐに致命的になるものだ。こういう致命的になってしまった失敗ケースを数多く経験してしまうと,どうしても防衛行動や情報の出し渋りに繋がりがちだ。

会話でない場面での情報収集の場として,冷静に今の自身の在り方を検討する意味で,ちょうど良いタイミングでコラムが掲載されていたので,これを活用させて頂くことにしよう。

古い情報ソースのみで生きている(或いはネットがあっても在り方が旧来通り)と思われるコラムの著者と,その著者とは付き合いの浅い社員(若者)との会話を引き合いに出しながら,情報に対する著者の見解が示されている。

▼RBB TODAY『どうせネットで検索すれば、の嘘』
http://www.rbbtoday.com/column/ittoku/20050920/
▼同『情報の属人性とはどういうことか』
http://www.rbbtoday.com/column/ittoku/20050922/

このコラムを読み,どのように感じるだろうか。おそらく著者はかなり頑固で不器用なのだろう。そういう意味ではWebmasterも引けを取らないとも言えるが,このコラムは普段著者がどのように情報に接しているのかが想像可能な,かなり解りやすい例と思う。

しかし,どうして情報を出し渋るのか,このコラムをよく読む程に,むしろ理解に苦しむ。気持ちは良くわかるのだが。

まず,『情報や知識には,それなりの努力と経験,費用がかかっているのだから,無条件に出す必然性は無い』といいう前提で話が始まっている。確かに,提供する『義務』は無いが・・・。しかし,積極的には情報を教えない,軽々しく教えたりしないという態度は,"安易に情報を出してしまったら損"というように読める

そして,『情報や知識は,属人的なもの』と断言していて,その情報が提供される空間を選び,出来れば気の合う仲間のみと共有すべきという姿勢を貫こうとしている。

上手いコミュニケーションの方法のひとつには,TPO(Time/Place/Occasion)を選ぶことは,確かに大切なことだ。しかし,最終的にそのタイミングに至るためには,まずこのコラムの著者と仲良くなって,同じ空き時間を作り出し,そしてその店まで一緒に行くことが求められるという。それ程までに情報を囲い込んでいるとも言える。ある意味(無礼ながらも)若者から懇願されたにも関わらず,それでも囲い込んだ。この事実をどう思うか。

著者の主張の一つとしては,体験/経験とセットにならないとこういう情報には意味がない/情報の持つ価値が変質してしまうということのようだが,事実上,この若者にはそのようなチャンスが容易に与えられないだろうことは明白なのに,結果として情報を提供しなかった。


・情報提供者とその情報の価値は,どう変化するか

情報を提供してあげたとしても,情報提供者の立場/価値は上がることはあっても下がることなど無いと思う。情報を提供することによって,新しい価値が生まれたり,また,フィードバック効果によってさらに新たな価値を創造し共有できるチャンスを生む"好循環"を作り出すことができるからである。

そしてその恩恵は,情報提供者にももたらされる。日頃からフィードバックをもらえる様な在り方をしていないと難しいと言うのかもしれないが,決して高いハードルではない思う。要は在り方の問題なので,自分さえオープンになっていれば良いからである。

またもう一つの主張は,最近は価値の少ない/無価値な情報が多過ぎて,本来の重要で有意義な情報が埋もれ,結果的に情報の持つ力が軽視されてしまっているというようなことが書かれている。このような認識であれば,有意義な情報を埋もれさせないようTPOを選ぶことに慎重にならざるを得ないだろう。

溢れる情報を器用に選別できる人が一体世の中にどれだけいるのかという認識も見え隠れするが,逆に言えば,情報の接し方のコツを習得済みの人にとっては全く無用で余計な配慮であり,むしろ,不器用であっても行き詰まっていたりして困っていれば,一見無価値な情報であっても,この著者がそうなのかは判らないが,恐らく一定の評価を得ている人物から情報を得ようとしたのだろう。そして,結果オーライ的に次へ展開することが出来,結果的に道が開けることも多い。

提供者の主観のみでTPOを慎重に選び過ぎることは,そういった可能性を積極的に潰していることになる。ある情報がそういったチカラを秘めていたにも関わらず,結果的に活用できなければ,囲い込んだ場合のその情報の価値は目減りしたと言えるのではないか。

そもそも新しい在り方になっている人にとっては,情報の持つチカラがかつてと比べて軽視されているかなんてことをいちいち気にしていないし,感覚的にそういうことを捉えて自らの在り方にバランスさせて組み込んでいるのだ。

ネットの普及によって,多くの人が気軽に情報を発信できる環境になったことで,かつてと比べて大衆的であったり,あるいは信憑性に乏しいものであったりして,一見すると価値の小さい情報が増えたことは確かだ。しかしそれは,あくまでもかつての情報と同じ土俵で受け取り,同じ価値観で比べているからそう判断しているに過ぎない。

かつての情報と比べれていれば,その大衆臭さを理由に毛嫌いすることになろう。ネットにおける情報の質を,情報が提供される仕組み/背景が構造的に変更されていることを把握できないでいると,誤認することになるのは当然だ。無意味で情報の中身が軽視されていると映るのもわかる気がする。年を重ねれば,価値観も感覚も保守的にならざるを得ないという側面もあるからだろうと思う。

大衆的で結構。大衆的であっても,自分が最も欲している情報は,例えば身の回りにはいない自分と同じようなプロセスにある人物から提供される情報であれば,マスの情報を補うことが期待できるハズだからだ。その情報には,提供者の人物,提供に至る背景や経緯も合わせて,その一部が提供されるだけで,その向きのには有難いものになるハズだ。それが技術革新によって得られた成果ではなかったか。

新しく出てきた現象を前提に,自分の在り方を常に見つめ直し修正し続けることが出来なければ,その古い価値観の提供者が提供する情報もまた,単に古い価値感で語っているのだ受け取られ,結果的に切り捨てられてしまうことにも繋がり,そしてそれが世代間のコミュニケーションの障壁の典型例になっていることを認識すべきである。

確かにこのコラムに登場する若者の態度は,記述通りの振る舞いであれば無礼と言えよう。まず,情報提供を当たり前のことと決め付け,あからさまに要求したら,情報を提供する側に対するメリットを理解していない者と受け取られる危険性があるわけで,振舞い方はうまくなかった。情報提供には提供者の厚意に依存していることを忘れてはもちろんダメだ。

この態度が提供者の感情的な面に影響し,提供することを止めさせたかどうかはコラムを読む限りでは不明だが,しかし,提供の場に高いハードルを設ける姿勢を崩さなかった著者の行動は,決してオープンとは言えないだろう。

例えば,会社のお客様を接待するのに必要な知識を『教えてクダサイヨ』とお願いしているにも関わらず,出し惜しみをしているのだとしたら,情報を保有する側の人の態度としては,まず会社員としてどうか。社員同士が敵ととらえるのであれば正しい行動だが,もっと仲間として付き合うことが出来るハズの関係と思う。店を紹介したにも関わらず,商談が店の雰囲気にそぐわず,その結果この若者が責任を押し付けてくるようなことが予想されているのであれば,防衛行動として出し惜しみをすればよいが,このコラムの趣旨は防衛行動のためではない。あるいは,若者は単にプライベートに行ってみたいだけかもしれない。それにしても出し惜しみする必要は無いのではないか。もしかして,情報提供者がこの店を訪れたときに満席になることを恐れるくらい,席数がよほど少ないのか。


・なぜ囲い込みが起こるのか

コラムには書いていない背景について余計な想像をしてしまうが,本質的な話題に戻そう。なぜこのような出し惜しみや囲い込みが起こるのだろうか。

1つは,過去に情報を提供した際,安易なコミュニケーションによってマズかった経験が災いしていると想像出来る。提供者の期待した情報の価値が,コミュニケーションのマズさによって活かされなかったとしたら,そういう経験からTPOを選ぶようになり,したがって被提供者を絞り込み,囲い込むことによって,消極的ではあるにせよ,コミュニケーションのマズイ点をカバーしようとすることになる。そして何時しか目的よりも手段の行動哲学が常識化/常習化/肥大化し,TPOを選ぶことに関する本来の意味を見失う。こうしてTPOさえ選べば問題が発生しないことから,コミュニケーションのマズさを改善する努力は行われなくなっていく。

或いは,情報を出し渋る人の周りには,やはりそうした"出し渋る人たち"が集まっているのではないか。だから,情報を提供する気にならないのではないか。そういう周りの人たちに情報を提供すると,それ以上のモノを周りが持つようになり,情報提供者だけが最低公倍数的な情報しか持てず,相対的な立場が低下するという懸念や経験を持てば,情報を提供することに抵抗を感じるのは当然だ。提供してもメリットを感じることが出来ず,なんだか勿体無い気分になる。そして,ついに周りの誰もが情報を出し惜しみするようになり,ダメスパイラルに陥る

そうなると,そういった人々の集まりを全体で捉えた場合,情報をオープンにしている人々との差が,長い間には埋め難い差が付いてしまうことに気がつかないか。一方で好循環を作り出し刺激し合いながら成長する過程を採っているのに対し,他方では情報を出し渋る行動を繰り返すうちに,周囲の人々をも巻き添えにしつつ,自らの価値を相対的に低くしていることになっているのではないか。お互いにけん制しているうちに,発展するためのプロセスを自ら放棄していることに気づかない

ネットで検索した情報を自分のモノにするまでの努力は,一から足で稼いで時間をかけてコツコツ収集した時の努力と比べれば,明らかに楽な場合が多いが,しかし,そうやって楽をして集めた情報と比較すると,コツコツと積み上げる過程で得る付帯情報『知識・経験・感情』の一部,或いは全部が欠如している。情報とはそうした有機的な集合なのだ。つまり,答えだけを得ることと,どのようにすれば正解に辿り着けるかという知識や経験は,決定的に価値の質が違うし,したがって,その情報を提供したからといって相対的にも減るとは言えないのだ。

著者の言う"属人的なもの"とは,この有機的な集合を意味しているとすれば,今度は"囲い込む理由"を説明できなくなる。前述の『このコラムをよく読む程に,むしろ理解に苦しむ』と書いたのはそういう意味だ。

いや,確かに対象者を絞り込まずに積極的にコミュニケーションを図ろうとしたら,煩雑になったり疲弊したりするかもしれない。そうならないための手段として,また,このコラムの著者のように,コミュニケーションの対象者を絞り込めば,周囲には仲良くなればとっておきの情報も入手できるかもと思わせ,濃厚な付き合いになることへのインセンティブを与える手段として,囲い込みの手法を利用するというわけだ。一挙両得などと考えれば悪くはないが,その代償として濃厚でない人との距離を取らざるを得ないし,当然そうした情報ソースは上手く活用できなくなる。趣味志向が似た者だけへと情報ソースの選択肢を狭めれば,新たな価値がやってくるチャネルを自ら閉ざし,したがってフィードバックのチャンスはますます減っていき,情報の持つ価値は目減りする。

いやもっと踏み込んで言えば,不幸になったことを自覚することはできないだろう。冒頭にも"困ったことになる"などと書いたが,旧来の在り方をしている人にとって,その他の在り方の人と接したとしても,接点が希薄だったり価値観を共有することができないため,その他の在り方の人を非常識と認識したり,自己を"最近の若者はイカン"的な頑固者として処理してしまうだけで,結果的に全く困らないのだ。したがって通常は自分の在り方を変更するには全く至らない。まさに,それが不幸なことなのである。


・オープンな態度は何をもたらすか

情報を提供したという事実を,周囲は見ているのである。このメリットはかけがえの無いものではないか。人情として,情報を提供した人に対して,一定の感謝の気持ちがあるものだ。有益な情報を繰り返し提供できる人には,それなりの人望を勝ち取る結果となり,さらには信頼感も得られるようになるだろう。『こういうコトは彼/彼女に聞けばわかるんじゃないか』と思ってもらえるように是非なりたいものだ

Webmasterは情報を積極的に出来る限り提供しようと心がけているつもりだ。情報提供者自身は,何も損をしないばかりか,得るものは多いハズだからだ。いかに効率的なコミュニケーション法を採ったとしても,受け手は全てを受け取れるハズもない。まぁ,その代わりに受け手は情報提供者が持っていない情報も得ることになるかもしれない。しかし,それをフィードバックによって一部でも自分のものに出来れば,それだけでも情報を提供したメリットは大きいと言えるのではないか。

また,こうした行動を積み重ねることによって,情報に対してよりセンシティブになっていく。多くの人に情報を提供すれば,そのフィードバックも様々だ。自分と異なる趣味趣向の人は非常に多い。そのフィードバックには実に意外なものが多く,情報との接し方が鍛えられるからだ。端的に言えば視野が広がるのである。

ネットの検索結果のような情報は,自分とは違う価値観や方法論によって提供された情報がバラバラと無秩序に列挙されるわけで,より有意義に活用するにはある種の技術が必要だろうが,そのためにも普段の在り方が重要になるというわけだ。

このようなネットワークの普及という技術革新によってもたらされた情報に対する在り方の変化は,価値ある情報を収集・提供する努力と,そのフィードバックを積極的に交換し続ける環境が整うことによって,それまで無自覚だった部分が浮き彫りになったり,より多くの人の考え方や価値観を共有出来るようになり,そこで得られた認識や経験に基づいた行動によって次の価値を提供していくという好循環を生むことに繋がっていくだろう。そのためのオープンな社会を創造していきたいと常々思う。そのためには,自分がまずオープンでなければならない。フィードバックを互いに得ることの出来る関係は,出し惜しみをすることによって雪崩式に崩壊するかもしれない。情報を囲い込めば,それなりのペナルティーがあることは当然である。


・企業活動と言えども,情報をオープンにする流れは同じ

これと似たものに,特許などの知的財産(知財)に関する話題がよく引き合いに出される。

特許とは,ある者に独占的な権利を認める代わりに,人類に役立つ有益な研究・発明を促すシステムであり,今日の科学技術の土台は,まさにこのシステムによって支えられてきたといっても過言ではない。しかし弊害として,構造的に独占を許すことから,その技術を基にした新たな創造/利用のチャンスが狭められ,人類全体の発展を妨げる。安易に独占を許せば不公平な結果を招くことになることから,したがって人類にとって明らかに画期的で余程の独創性が認められない限り"特許"として独占権を認めない方向にすべきであり,管理監督する当局の運用はこの点で非常に重要なハズだ。しかし今日の特に問題になっているソフトウェア特許・ビジネスモデル特許では,当局の独創性を判断する根拠となる認定基準が古過ぎ,敷居が低すぎるだけでなく,ソフトウェアや新しいビジネスに対する認識が決定的に不足しているという呆れた運用の実態や,戦略的な国際競争力を確保するという政治的な思惑によって,残念ながら,特許の理念そのものが破綻しかけてしまっている。公平性を担保するためにも,もっとオープンな活動を支える仕組みが求められている。

企業の目的とは,商法を初めとしたあらゆる法律やビジネスルールに基づいた『金儲けのゲーム』に勝つことである。企業を経済活動/資本主義の象徴として捉えれば,まずそれだけのものであっても良い。しかし結局そこには,多くの個人が関わることになり,究極的には企業という組織は個人の幸福に貢献する仕組みでなければならない。個人同士の集まりや付き合いが企業活動でなければならない。したがって,人類が発展するには,企業・個人に関係なく,情報を囲い込むのではなくよりオープンにし,付帯情報を提供するなどして情報により多くの価値を与えるべくイニシアティブをもって,積極的に行動することが求められていると思う。

企業の側も,囲い込むことに精力を集中すれば,短期的には利益に繋がるかもしれない。長い目で見れば,消費者が消費者のための戦略を採っていないことに気づき始め,次第に敬遠され,少しずつ企業イメージを損うことになる。企業イメージに傷がつくことのペナルティーは最近は特に大きくなる傾向にあると思う。


好循環を得るためには,社会的なオープン性・フィードバックの循環を生む環境が必要となる。Webmasterは日頃から,他人や企業の行動を通じてオープン性のチカラを信じているかどうか,ある意味踏み絵のようなものを見てしまっている。出し惜しみや囲い込みを行う人・企業は敵となるが,それでもWebmasterは情報を提供し続けて行きたい。

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