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日和見バナナ |
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We are students of development.
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Hiyorimi Banana by "saging"
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活動家時代の記録 ♯0
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プロローグ |
中学〜高校時代、私は、ユース・エンディング・ハンガー(以下YEH)という「地球上から飢餓を終わらせる」ことを目的とした青少年組織に入って活動していた。YEHの母体は、ハンガー・プロジェクト(現在は特活ハンガー・フリー・ワールド、ややこしいので以下H)という国際的なNGOであった。
12歳から18歳までの約7年間、私はその組織の「活動」に熱狂的に傾倒していた。そして高校卒業を前に、それらをやめてしまい、以後、「国際協力活動」や「NGO」を冷笑的に批判する立場に立つようになってしまった。
自分が「活動家」であったことについて、あるいは、なぜ自分が活動家であることをやめたのかについて書くことはとても難しい。(いま思えば)とても温情的で短絡的な理由によって私は動いていたし、あるいは現在もそうかもしれない。
それでも、ここに書くことが、何らかの参考になれば幸いである。
YEHに入ったきっかけは1992年、地球サミットの年であった。湾岸戦争、ペルシャ湾への原油流出、そして地球サミットと、地球規模の諸問題に注目が集まるとともに、「子ども」と「NGO」への可能性に社会の関心が集まっていた年であった。1980年生まれの私たちは「2000年に20歳を迎える子どもたち」、「21世紀のはじめの大人」としばしば呼ばれていた。本当の話である。当時、私が愛読していた雑誌「かがく」でも、湾岸戦争や環境の問題、飢餓の問題が写真入でよく取り上げられていたことを憶えている。
そんなとき、私の通っていた学習塾でも、環境問題についての作文コンクールが開催された。入賞したらインドに連れていってもらえるとの言葉に惹かれ、私は作文を書いた。いま思えば実にくだらない作文で、「パチンコ屋の電気はもったいないと思います。」「鉛筆削りを遣わずにカッターで削れば、電気が節約できます。」などと書いてある。なんと単純な発想…。それでも、私は当時小学生だったため、「身近な問題として捉えている」という評価をいただいて入賞し、さらに、インドに派遣されるための面接審査を受け、そうして、日本から20名のアジア子ども大使に選ばれた。日本各地に住むの小学5年生から高校3年生までという、今から思えば随分ややこしいグループだった。勉強会に参加し、飢餓問題に関する基本知識をたたきこまれ、そしてインドに行った。英語もわからず、いや日本語さえおぼつかないまま、YEHの国際会議に参加した。日本からも、高校生・大学生のメンバーがたくさん来ていたが、小学生の私にとって、会議はあまりに難解だった。食べ物がないことが「飢餓」だとしか思っていなかった私にとって、人口爆発や識字率の話が理解できるはずがなかった。しかも、同時通訳が訛っていて聞き取りにくかった。ミクロレベルとマクロレベルの飢餓撲滅へのリサーチについて延々と話されている日があったのだが、ミクロマクロという言葉を知らなかった私は、訛った通訳の「みくろう」「まくろう」という声をききながら「何? ふくろうの仲間?」と思いながらきいていた。まったく、むちゃくちゃである。
もちろん、周りの年上の日本人参加者は私に、それらの内容をやさしく解説してくれた。それでもわからなかった。おまけに、英語はハローとサンキューしか知らないので、海外のメンバーに話しかけられても一言も答えられない。そして、極めつけにインドは暑い。会議場では扇風機すら故障している。宿泊所のシャワーが出ない。ハエが多い。食べ物が辛すぎる。…と、私にとっては欲求不満だらけの日々だった。
会議の合間に、デリーを観光し、スラムや孤児院を訪問した。生まれて初めて見た「飢餓」の光景は、たとえそれが切り取られた現実の一部でしかなかったとはいえ、私にショックを与えるには十分であった。その中でも希望を持って働くYEHのメンバーが輝いて見えたのは言うまでもない。会議の最終日に参加者全員が肩を組んでテーマソングを歌い「飢餓を終わらせる」と約束しあったことだけは、私の記憶に残った。だれも、私を子どもだからといって馬鹿にせずに、飢餓を終わらせる仲間だと言ってくれた。「帰ったら作文を書いて先生や友達にインドのことを知ってもらいます。それから、学校で古切手を集めます」と私は発言し、日本で活動を開始することを決意した。
その後、学校に設置されていた社会問題研究会のようなクラブ活動や、青年会議所の主催する国際会議の子ども実行委員に参加をしたのち、最終的にYEHが私の拠点となった。YEHのメンバーはいつも、決して私を年少だからと言って軽く見たりせずに飢餓を終わらせるパートナーとして扱ってくれたからだ。
私は文字通り活動に傾倒していった。これから書くことは、当時の思いに忠実に書いたものであって、現在の私の考えとは程遠いものがある。それでも、国際協力やNGOに憧れを感じてやまなかった10代の自分の思考を示すものをここにいくつか記載しておくことが、誰かの何かの参考になれば幸いである。
この記述はたぶんに自己批判を暗示するものになるが、それは決して、YEHやHの当時のありかたや、そこでともに活動していた人たちを批判するものではない。むしろ、私は今でも、当時のYEHやHの活動は、社会変革の方法としてBestではなかったかもしれないにせよ、数あるBetterのなかのひとつであったと確信している。私が活動をやめたあと、Hの法人格取得に伴って、YEHやHの体制や活動内容、人(理事、スタッフ、ボランティア)は変わってしまったので、いまのYEHについては私は多くを知らないし、何を言うこともできない。しかし、私が、以前自分が関わらせていただいていたYEHやHについて書く場合、それは決して、それらの活動や、そこに関わった人々を否定するものではない。 |
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