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日本のNGO ♯2 
NGOのシンポジウムに思う―企図者と参加者とのギャップ―
自分自身があるNGOで活動をしていたせいで、私は中学生の頃から、自分が日常的に関わっている以外の団体の会合やシンポジウム、勉強会(一般参加者を募るもの)などを知る機会、そして、参加させていただく機会が多かった。
現在でも、メールマガジンなどで見ておもしろそうだと思えば、まったく面識のない団体が主催するシンポジウムや集会に参加することがしばしばある。そのなかで、必ず感じるある種の疎外感がある。
NGOの行う会合(一般に「イベント」と呼ばれる)を、その目的の違いから参加型会合と講演型会合に分けるとすれば、具体的に私の味わう疎外感とは以下のようなものである。

<参加型会合における疎外感>
参加者に情報を提供し、団体への賛同や運動への参加を呼びかけることを目的とする。
難民問題に関するシンポジウム、環境問題を考える集いなど
「自分がその問題について無知であり、教えてもらっている」という感じ
「その活動/運動に、勧誘されている」ような思い
「なにか貢献(金銭的貢献、自己実践、自身参加など)を求められている」ような気持ち
「その問題に関心を持たなくてはならない」といった一種の罪悪感
「確かに、私にも協力できることはありそうなのだけれど…(以下略)」

<講義型会合における疎外感>
一般市民にあまり知られていない専門的な情報を参加者に提供し、それらへの意識向上や意識改革を図ることを目的とする。政策に関する勉強会、サミットに向けた市民の集いなど
「自分があまりに無知である」という引け目
「これらのトピックを理解するには、かなりの努力が必要だろうな」という思い
「こんなこと、とても片手間ではできない」という畏れ
「結局、自分にできることはなさそう。専門家に任せればいいのだ」というあきらめ

主催する側はいたって純粋に「この問題についてもっと多くの人に知らせたい」「多くの協力を呼びかけたい」と思うのだろうが、その思いを突き詰めていくと、「これは重要な問題だから、多くの人に知らせなくては」という使命感、「市民が無関心なのはよくない」という気持ちが働いているのではないだろうか。私自身も、これまで会合を企画したり、ニューズレターの原稿を書いたりするときに、「市民は無知だ」という思いが、どこかにあったのかもしれない。
参加者の側は、「確かに、自分にも参加できそうだけど…(以下略)」とひととおりは考え、その場では寄付をしたり署名をしたりもするのだが、主催者からのインパクト(活動が楽しそう、人が魅力的、よほどその問題に関心を持ったなど)が、この「以下略」の部分に比べてじゅうぶん強いものでない限り、その活動/運動にその後継続して参加・協力することはまれである。
自分が「主催者側」にいる場合は参加者とギャップを感じるし、自分が「参加者」である場合は主催団体構成員と距離を感じてしまう。私の場合は、主催者と参加者、双方の立場に立つ機会が多かったために、つい、向こうの裏を想像してしまうだけかもしれない。「12歳からNGO界に浸かってきた私ですらこのように感じるのだから、ほかの参加者の気持ちはいかばかりであろうか」と考えてしまうのだが、案外、世間の人たちはもっと割り切って考えているのかもしれない。


        
 

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