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社会運動 ♯1 
反戦運動 1 社会運動に関わる動機
2003.3.26
ここ数週間、毎日、何通もの「反戦運動」への参加を呼びかけるメールを受信している。知人からのダイレクト・メールであることもあるが、多くは参加しているML上の投稿である。私の故郷である京都および関西一円でも、デモ、反戦集会、ピースウォーク、キャンドル行進、人間の鎖などが開催されているとの情報が毎日入ってくる。
集会やデモだけではない。戦争反対バッジをつける運動、国連安保理への署名活動、ブッシュ大統領や小泉首相に抗議メール・抗議FAXを送る運動、ハンガーストライキ、アメリカ製品不買運動、人文字、ブッシュ大統領にプレッツェルを送りつける運動…、などなど、ここまであちこちでいろいろな情報が出回ると、日本のメディアでも多少は報道されているのだろうし、さすがに何かしなくてはという気持ちになるのではないだろうか。

しかし、日本に住むほとんどの人たちは、対イラク戦争の直接的な当事者ではないし、運動の成果の受益者でもない。 ウィリアム・ギャムソンは、非構成員を助ける目的を持った集団を「普遍主義的団体」、受益者と構成員が一致している団体を「非普遍主義的団体」と呼んで区別している(塩原勉編『資源動員と組織戦略』より)が、現在の反戦運動は前者に分類されるものである。(もっとも、運動をしている人たちが「全員が当事者です」と呼びかけているように、全世界の人間がこの戦争の当事者であり、すべての人が反戦運動による恩恵(「平和な世界」)の受益者であるという主張もあるわけだけれども、それを含めるときりがないので、ここでは「直接的な」受益者を考える。)

後者の非普遍主義的団体の場合、個人が運動に関わる動機は、集合行為論者の指摘するような「不満(ストレイン)」によるところが多いのかもしれないが、ある問題に対する利害当事者・受益者以外の人間が社会運動に参加する前者の場合、資源動員論あるいは新しい社会運動論で議論がなされているように、運動参加の動機はそれほど単純ではないが、「何かしなくては」あるいは「何かしたい」という感情はそのひとつであろうと考えられる。
「何かしたい」という感情は、NGOの言説においては、おおかたプラスのイメージで語られることが多い。しかし、私はこの「何かしたい」という善意に基づいた社会運動というものに対する疑念が拭いきれない。ここでいう疑念というのは、活動の意義に対する疑問だとか、その効果に対する懐疑だとかいった意味ではない。きっと意義はあるのだろう、効果もあるのかもしれない、けれど自分は参加しないだろう…、といった、日和見めいた気持ちである。学部時代にお付き合いいただいたあるNon-poliの先輩が「胡散臭い」という言葉を使っていたけれど、その言葉に収縮されるような感覚をもっている。

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個人的な話だけれど、私は「飢餓撲滅のために何かしたい」という気持ちと、豊かな日本に暮らしている自分への一抹の罪悪感から、日本の国際協力NGOの活動に7年間身を投じていた。中学生が国際協力NGOに参加することについて、周りの人はさまざまなことを言った。「世界の人のために役立ついい活動ですね」というほめ言葉や「自分は日本に住んでいるくせに援助だなんて、偽善的じゃないの」という批判。「人のためにやっている」と思われていることに気がついた。でも、本当はそうではない。「何かしないと悪いような気がするから」やっていたに過ぎないのである。 「飢餓の現実を見たものとして心が痛むから私は活動をするのであって、他人のためにやっているのではない。自分のためです。」―私は自分の活動の動機をそのように説明するになった。以下は、高校生のとき、エッセイコンテストに向けて私が書いた文章である。

私は小学6年生の夏、あるきっかけと紹介でインドに行かせてもらった。連日の過密スケジュールと、暑さ、飛び交う蠅の多さ、水すら出ないシャワー、辛すぎる食事など、「もう帰りたい」と文句を言いたくなるような環境の中で私が見たのは、路上で生活する人々、膨大な数の物乞い、街角で花を売るストリートチルドレン。たった一週間だったが、生まれて初めて見る「貧困」、そして私と同じ、いやもっと幼い子どもたちの直面している「飢餓」という問題に、私のそれまでの考え方や生活はすべて覆された思いがした。世界は本当に平和なんだろうか。ちょうどその夏、バルセロナ五輪が開催されていた。インドに行く前にテレビでその華やかな開会式の様子を観たときには「スポーツは国境を越えるんだなあ。どこの国の選手もみんな仲良くていいなあ。」と単純に感動できた。でも、インドに行ってから私の考えはまるで変わってしまった。インドの多くの子どもたちは、私のように今日食べるものについて何の心配もせずにテレビを観ていることなんて出来ない。そう考えると、テレビの中のお祭り騒ぎを観ても決して楽しい気分にはなれなかった。小学6年生の社会科の教科書に載っている「世界平和」なんて言葉が、たまらなく嘘臭く遠く響いた。私の心の中には、いつもインドの子どもたちがいた。バスの窓越しに私の目を見つめて手を差し出していた男の子の姿。彼はまだこの世にいるだろうか。私と会った翌日に死んでいてもおかしくはない。考えたくないことだが、そう思うと私はどうしようもない気持ちになる。飢餓が存在する限り、彼らのことが気になる。飢餓がある限り、私は心から幸せにはなれない。だからこそ私はごく自然に「飢餓を終わらせたい」と願うようになった。自分の幸せのために地球上から飢餓をなくしたかった。12歳の日本の子どもとして。(引用はすべて原文のまま)

しかし、罪悪感の埋め合わせのためにNGO活動をしていますという説明は、参加の動機としてはよいかもしれないが、継続の動機としてはあまりよろしくないと自分でも感じていた。そこで、私は次なる説明を考えた。なぜ自分が活動を継続しているのか。…以下は、先の作文の続きである。

私はNGO活動に参加し続けてきた。飢餓や世界の国々についての勉強会やイベントの開催、マスコミへのアプローチ、バザー、企業を訪問しての資金集めなど、がむしゃらに何にでも手をのばした。けれどもどんな活動も、インドで見たあの光景を忘れるために過ぎなかった。私はただインドで受けたショックだけを引きずって活動を続けた。日本で何不自由なく暮らしている自分への罪悪感をごまかすために。私はインドで貧しさしか見ていなかった。これではいけない、何度もそう思ったが、幸運なことに高校に入学してから、バングラデシュとフィリピンを2度ずつ訪れることができ、途上国で実際に自国の飢餓と闘っている人々は、現地に飛んでいけない私たちのかけがえのないパートナーであることがわかった。現地で日常的に飢餓を克服しようと努力している人々の存在は、私にとって大きな力づけだった。(引用はすべて原文のまま)

このように、結局のところ私は、「現地の人たちの努力とパートナーシップが私の活動の動機である」というさらに胡散臭い説明を、自分の活動への継続動機に代えようとした。
しかし、それも長くは続かなかった。大学入学を前に、私は7年間続けたNGOの活動を止めることに決めた。止めた動機はおそらく継続の動機よりももっといくつものファクターによるものであるけれど、止める直前に書いた以下の文章はそのひとつである。(まるで世界システム論のようだけれど、その当時は、そのような知識があって書いたわけではありません。)

飢餓の原因はほかでもなく、先進国が富めば富むほど途上国は貧しくなる(搾取される)という世界の構造にあるのではないか。自分も搾取者でありながら国際協力などといって正義面することはこのうえない偽善であり、片手で相手の頬をつねりながら、もう片方の手で握手を求めているようなものではないか。そのような立場にいる自分の罪悪感や、飢餓の映像を見たときの一時の感情の昂揚や衝撃、「何かしたい」といった善意だけで、簡単に「国際協力」に足を踏み入れようとするのはきっとよくない。国際協力だのNGOだのといえば周りの人たちは「いいことをしている」「人のためになるすばらしい活動」と言うが、とんでもない。最初から最後まで私は自分の心の平穏のためにこの活動をしてきたのであって、途上国の人たちのためになしえたことなどひとつもない。結局のところ、飢餓の只中にいない人間に言えることなど限られているのだ。(引用はすべて原文のまま)
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以後、私は国際協力系であろうが、人権系であろうが、平和運動であろうが、自分が当事者でありえない活動(前述の言葉を使うと「普遍主義的」活動)にはいっさい参加しなくなった。今回の反戦運動にも、それに通じるものがあるように思えてならない。飢餓の只中にいない私に云える言葉がないように、戦争を見たことのない人間に言えることは限られている。「自分も何かしなくてはという思いで(といった表現がML上でよく見受けられる)」反戦運動に参加するのであるえば、それはもはや「イラクの人々のため」ではなく、自分の心の安寧のためなのだ。「何かしなくては」欲求を満たすことを動機とする運動に価値があるのだろうか。にここに、私の懐疑心(胡散臭さ)の原因があると思う。

胡散臭さを説明するものとして、もうひとつの議論を引用する。中野敏男は、社会運動ではないが、近年日本で台頭してきた「ボランティア活動」と呼ばれるものの特徴として、以下のような点を挙げている (中野敏男「ボランティア動員型市民社会論の陥穽」、『現代思想1999.Vol27-5』)

1)実は、ボランティア活動はそれ自体としては「目的」をもたないのであり、「何かのためにやる行為」ではない。むしろ「何かをしたい」という意志(文字通り自発性)だけが先にある。
2)とはいえ、「ボランティア」の内容には選別が働いており、たとえば、暴走族や同好会はボランティアとは呼ばれない。また、緑化運動はボランティアでも、権利擁護のための社会運動や政治的主張を持つ団体への参画はボランティアとあまり呼ばれない。つまり、「ボランティア」には、「公共性」あるいは「他者志向性」という概念が働くこととなる。

これらはまさに、ボランティア活動であれ、NGOであれ、社会運動であれ、当事者/受益者以外の人間が関わる社会的活動の特徴を端的にあらわすものであろう。1にあるように、ボランティア活動は「これをしたい」ではなく、「何かをしたい」という意志が先行することが多い。しかしながら、一般的に「ボランティア」や社会運動は「他者志向的」かつ「愛他的」な意味合いをたぶんに含蓄している。つまり、人々は実際には「何かをしたい」意識(自己益)のために集まっているののであって、行動の社会的理念や大義(他益)は二の次であるというのである。

もちろん、必ずしも昨今の反戦運動がこれに合致するとはいえない。今回の場合は、「反戦」という明確な理念・大義(Cause)が存在するわけであるから、「とりあえず何かしたい」、「貧しい人のために働きたい」といったボランティアや国際協力系の活動ほどの曖昧さはないだろう。しかしそれにしても、「何かしなくては」が先行することに対する私の疑念は払拭できないままである。
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本文は「普遍主義的団体」による社会運動を否定しているわけでも、反戦運動を批判しているわけでもありません。社会運動の意義を考える場合に、行動当事者にとっての意義と、現在の状況下で果たす社会的機能とは区別されねばなりませんが、本文は、前者についてのみ言及したものです。ウェブ上で多く見られるのは反戦運動の効果への疑問であり、それは後者に含められますが、本文はそれらについて述べたものではないことをご了承ください。


        
 

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